厚岸紀行

『厚岸』という地名を初めて認識したのはいつの頃だっただろうか?
入試に地理を選択しなかった(関係無い?)こともあってか、大学生になっても暫くは道東(この言葉も社会人になって知った)と云えば釧路・根室など常識的な地名しか頭になかった。
二十歳の時に、でっかいリュックを背負った“カニ族”として、北海道一人旅に出たことがあった。
青森から青函連絡船八甲田丸で初めての北海道に渡った。
函館・長万部・ニセコ・小樽・札幌・旭川・網走等を旅したが、この時は“一人で旅をする”ことが主題であり、北海道に関して大した知識も持たっていなかった。
今でこそ広大な平野を感じさせ、北海道一番の魅力と確信している道東には結局廻らずに旅は終わった。

学生時代に小児科助教授だった個性的な風貌の五十嵐正紘先生にはいろいろなことでご指導ご教授を頂いたのだが、先生が厚岸町立病院の第23代病院長として赴任し活躍されたのは1981年からの10年間だった。
私は1979年に大学を卒業していたので、先生はその2年後に厚岸に赴任されたのだが、母校の恩師の動向は直ぐに耳に入ってきた。
自治医科大学ではへき地医療を教えるが、“教員がへき地医療の実践経験皆無なのは如何なものか?”という【問題提起】だったと聞いている。
つまり1981年に初めて『厚岸』の地名に出会ったわけだ。

私は1989年に故郷徳島を離れ、埼玉県大宮市(現さいたま市)に転居してきた。
そして新設の【自治医科大学付属大宮(現さいたま)医療センター】の教員となった。
2年ほどして、同僚の麻酔科医師が浦幌出身であった関係で浦幌町立病院からの支援要請があり、一週間ほど浦幌に滞在した。
外科支援が終了した時にちょうど夏休みをとって、家族を帯広空港に呼び寄せてレンタカーで道東~道北を旅した。
【愛国から幸福行】という切符が一大ブームとなり、テーマパークのはしりでありドイツ文化を紹介する“グリュック王国”が年間70万人の観光客を迎えていた最盛期の頃だった。
この時は、浦幌から太平洋を右に見ながら、釧路に向かった。
釧路港ではオープン程ない“釧路フィッシャーマンズワーフ“で食事したことを覚えている。

そして、ここで進路を大きく左に切って、阿寒湖⇒摩周湖を訪ね、屈斜路湖で湖水浴を行い、川湯温泉に宿泊した。
網走に出てお定まりの刑務所を観光して、原生花園に足を延ばした。
オシンコシンの滝を過ぎて、斜里町から知床峠を越え、羅臼に至った。
羅臼では子供を連れて公衆浴場に浸かったのだが『おじちゃん なんで背中に絵が描いてあるの?』と倶利伽羅紋々の御仁に向かって問いかけた次男(4歳)の言葉に慌てたことを今ふと思い出した。
後で知ったが昆布取りの漁師さんにはその頃彫り物が流行っていたそうだ。
羅臼からは根室まで走行し、納沙布岬を見学し、下って”車石“まで到達した。
ここで花咲蟹を初めて知ってお土産にしたのだが、持って帰って職場に配ると、味は毛蟹のほうに軍配が上がってちょっとガッカリした。
ここより浦幌までの帰りは厚岸を通過したはずだが、車中では“ムツゴロウ動物王国”
(ムツゴロウこと畑正憲が創設した動物と触れ合うための施設)が家族の話題の主となり、ついに厚岸には立ち寄ることなく、浦幌まで帰ってしまった。

2010年頃、公益社団法人地域医療振興協会の東京北医療センターに勤務していたのだが、この時、道東の“別海町立病院”を支援することになった。
小児科と外科がメインだった。
外科の支援は週4日だったが午後半日フリーの日があり、この時に病院の車を借りることが出来たので、毎回のように道東のドライブを楽しんだ。
18年前に家族と一緒に訪れたときには『二度と訪れる機会はないだろう』と感慨深く眺めを記憶に収めた納沙布岬も、この機会に何度も訪れた。
あの時(真夏だった)も別海からいつものコースで厚床までドライブした。

ここでハンドルを左に切って“回転寿司花まる”で軽く腹ごしらえして納沙布岬でカモメに挨拶する予定だったが、ふと右に舵を取った。
厚岸病院の佐々木暢彦病院長を表敬訪問することを思いついたのだ。
東京北医療センターから消化器内科が支援していた縁で大学1年後輩の佐々木先生には何度か東京北医療センターの病院長室を訪ねていただいたことがあった。
この時に知ったのだが、佐々木院長は大変な読書家で、それも私が一時期のめりこんでいた海外ミステリー小説の大家だった。
その後会うたびに『この題名の小説はとっても面白いから』と、お互い【これぞお勧め!】の小説を紹介し合っていた仲間だ。

ところで、厚岸は別海から遠い印象を持っていたので、それまでは半日のドライブで訪れようとのアイデアは浮かばなかったのだが、暑さでぼーっとした頭だからこそ、突然“いい案だ!”と思ったのだろう。
ナビの付属していない車だったが、道路標識に案内されながら“霧多布岬”も見学し随分と遠回りで厚岸病院に辿り着いた。
夏だったので、短パンとTシャツ姿で受付に案内を乞うと、名刺も持っていなかったこともあり当然の如く“胡散臭い中年オヤジ”と見做されたようで、直ぐには院長に会えず(外来中だった?)、受付嬢からの訴え(?)で事務長の土肥さんが出てきた。
土肥さんには東京北医療センターの病院長室で一度お会いしたことがあり、やっと私の身分が証明された。
佐々木先生にも挨拶ができ、帰りは勧められた“道の駅:コンキリエ”でちょっと早い夕食(久しぶりの海鮮丼)を摂った。
もちろん美味かった!

その1~2年後に厚岸町から外科医の支援要請があった。
別海町への支援が終了していたこともあり、東京北医療センターからの外科医派遣が始まった。
業務の都合や受け持ち患者さんの状態により派遣に応じられる人員の選別に苦労することもあったが、そんなときは主として私が(別海の時もそうだった。恣意的と思われることも随分あったようだが…)支援要員となった。
釧路空港から厚岸への迎えの車の車窓から“昆布森”という地名を見つけたときは、そのあまりにも率直な命名に思わず微笑んだのだが、厚岸辺りの昆布は食用だけでなく、ヨードの原料として欧米に輸出されていたことを後に知った。
ヨードと云えば、中学校で感動したヨウ素デンプン反応実験であり、散々お世話になったポピドンヨード消毒液であり、イソジンうがい薬だ。
手元にある“厚岸歴史物語:『明日はいつも、海からやってきた』”には、明治24年に国泰寺近くのバラサン岬に建てられた製造所で、日本で初めてのヨード製造に成功したとあった。
また、明治40年代には厚岸湾がニシンの豊漁で湧いたそうだ。
嘗て道東一の賑わいの港町だったことをこの書物で知り、感慨深かった。

さて、しばしば町内では一番美味しいとされている小料理屋“東京炉ばた”でご馳走になり楽しい宴の数々の思い出があります。
最大のものは、銘酒【北の勝】を飲みながら『 如月の 夜に集いて 交わす盃 熱き心で 語る夢あり 』と即興の三十一文字の詩を詠んだところ、後日女将さんが揮毫してくれて尚且つ立派な額に入れて送ってくださった。
ありがたいことです!
今も病院の玄関にその額を掲げている。

さて、“東京炉ばた”では女性を伴っていた立派な紳士に遭遇したことがあった。
同席していた土肥さんから我らが敬愛する『厚岸の若狹靖町長』さんと紹介された。
この時町長さんから「東京には厚岸の牡蠣を食べさせる店があるからぜひ行ってください」と教えて頂いた。
日本橋とコレド室町に繁盛している2店舗があり、同窓会に利用する予定を立てている。ところで町長さんの同伴者は妙齢の綺麗な婦人だったので遭遇(目撃)してよかったのだろうかと案じたが、後で町長夫人であると教えられほっとした思い出がある。

厚岸病院の電子カルテはそれまで使っていたのと同じシステムだったこともあり、外来診療業務は看護師さんを始め職員さんのテキパキとした対応のおかげでとてもやり易かった。二日目の夜は当直を担っていた。
早朝目を覚ましカーテンを開けると、厚岸湖の対岸の峯から朝日の出を拝むことがあった。特に冬の晴れた朝は、湖面を曙色に染めているのが美しかった。
厚岸では朝早く(真冬以外)散歩に出て、あちこちを見て回った。
写真撮影を趣味にしているので厚岸大橋の袂から厚岸湾の写真を撮ったり、強い風に運ばれてくる海の香りを楽しんだりした。
ある時は厚岸漁協直売店まで案内して頂き、いろいろと土産を買い漁ったついでに評判高いという“オイスターブラック(牡蠣の煮汁を練り込んだビール)”を飲んでみた。
予想と少し違ったその不思議な香りと苦みが気に入って好みの1本に加えた。

2年程で東京北医療センターから外科医派遣は終了した。
支援こそ地域医療振興のシンボル的業務と捉えていたので、残念( “オイスターブラック”が飲めなくなったことだけではない?! )に思っていた。
さてその頃或る時ふとインターネットの画面に、『厚岸牡蠣に新たなブランド立ち上げ』の記事が目に入った。
既に名産品として知れ渡っている“カキえもん”に続く有名ブランド確立の企画だった。命名募集の1等賞は「厚岸への招待だったか10万円だったか?」忘れたが、結構本気になって考えた。
牡蠣はオイスターだ。
厚岸の新しい牡蠣ブランドは厚岸の名前を全国に広めることも含まれているのだろう。
厚岸の新しいスターの誕生だ!つまり“アッケスター”とした。
【厚岸町】の名も全国に拡がるだろうと…。
自信満々だった。
賞金は厚岸への旅費にするつもりだった。
後は厚岸への日程をいつにしようかということだけだったのだが…。
ついに1等賞の連絡は届くことが無かった。

その後再び縁あって初秋に5日間の支援を担うことがあった。
到着の夜は駅前のホテル五味を利用することになっていた。
遅い夕食時ここの若い支配人と話をしていると、暫く東京で働いていたという。
そして酒の知識が豊富で特にウィスキーの造詣が深い人だった。
同夜数人の西洋人の宿泊者がいたので、支配人に聞いてみるとスコットランド人の職人だと云う。
スコットランドと気候・土壌が似ている厚岸に新しくウィスキー醸造所を作るために来たそうだ。
”厚岸ウィスキー“はスコットランドのポットスチルで醸し出され、熟成樽用のミズナラも手に入れての期待の大きいシングルモルトウィスキーとなるだろう。
樽買いと云うのがあるそうだが、一樽300万円らしい。
これには手を出せないが、売り出されたら直ぐにボトル数本は手に入れたい。
尤も愛飲するアイラ島のラガヴーリンは16年物であり、25年物は宝物として大事に保管している。

私に ”厚岸ウィスキー“の25年物を飲む時間は残されているだろうか?

別海物語

別海物語

Betsukai Hospital Blues           Dr.山内 作詞・作曲

夜の街にゃ キツネ歩いてるぜー
香川県ほど この町ひろいぜー
24時間眠らぬところもあるぜー
朝も昼も 夜もはたらくぜー
ほかの町の 患者さんよく来るよー
ここは別海みんなのHospitalBlues
そんな時間があれば飲んでいるぜー
休日も働く別海HospitalBlues
道のまん中 牛や馬いるぜー
鹿がときどき 車ぶっこわすぜー
運転者が救急車で運ばれる
サイレンの音 だんだん近づくぜー
これからアタイの 腕のみせどころ
ここは別海みんなのHospitalBlues
顔も洗えず 化粧もできず
点滴さして  バルーンを入れて
時間との勝負のこともあるんだぜ
遊ぶ暇ない別海HospitalBlues

別海町を知ったのは10年ほど前になる。
その頃は赤羽にある東京北医療センターに勤務していた。
母体は公益社団法人地域医療振興協会だ。
ある時理事長(自治医科大学卒業生で1学年先輩)から、”別海町立病院からの要請に応じて、小児科と外科の医師を派遣する案件を検討するように”との話がもたらされた。
公益社団法人地域医療振興協会の使命である“地域医療機関への診療協力”の実績は、  それまでにも伊豆の湊病院・福井県の丹南病院・岐阜の恵那病院など経験してきた。
ただ、北海道道東からの派遣要請は初めてのことであり、別海町は道東にある日本一大きな町で香川県より広いと聞かされた。
ニュージーランドは人より羊が多いことが話題になるが、別海では人より牛が多いらしい。
北海道道東と云えば網走・知床・根室は訪れ、帯広には滞在したことがあるものの、別海は初めて耳にする地名だった。
理事長に“どこらあたりの町ですか?”と質したが、あまり適格に推定できない返答だった。
知床と根室の間の広大な町で、牛乳と自衛隊基地のある町とのことだった。
25年ほど前に、家族4人で帯広の浦幌から釧路経由で阿寒湖、屈斜路湖、
知床~根室~帯広とドライブしたから通過したはずだが、その町名に覚えは無かった。
結局、初回派遣に応じることにした。 先ず“隗より始めよ”だ。
中標津空港から迎えの車で40分くらいだった。
小川の流れる脇の広大な土地に建つ木造の町立病院が目に入ってきた。
わたしが、かつて勤めていた徳島県南の町立病院と似ていた。
ただし故郷のそれは海に面していて、山が迫っていて、僅かばかりの敷地に建つ病院で
しかなかったが…。
病院脇には2階建ての立派な職員住宅があり、快適であった。

新しい人との出会いは数多くある。
ただ、その後どのように発展するかは“神の気まぐれ”かもしれない?
この時の別海病院には8人ほどの常勤医がいたが、到着した夜は病院職員の多くが参加
した歓迎会を催してくれた。
私の隣は、産婦人科医長の山内修先生が着席されていた。
私の自己紹介と常勤医師そして主要職員の挨拶の後には、町長さんからも支援に対して 謝意が述べられて、乾杯と歓談となった。
山内先生は人懐っこい笑顔で、人見知り気味(?)の私に話しかけてくれた。
歳は私より2~3歳上とみた。
『先生はどこの出身ですか?』
⇒『四国の徳島です』
『えっ! それは奇遇ですね。 うちの家内は隣の高知県出身なんですよ!』
先ずこれで仲良くされそうな気になった
『音楽の趣味はありますか?』
⇒『時に演歌や石原裕次郎の歌謡曲を口遊むことがあります。大昔(中学校時代)に吹奏楽部のピンチヒッターでトランペットを吹いていたことがありますが、今は何の楽器も扱えない不器用者なんです~』
『私はオペラの大ファンで、家には100枚を超えるオペラのレコードを揃えていて、夜な夜な楽しんでいます。オペラっていいですよね! ロックも好きだし、ギターを弾いて作詞・作曲も楽しんでるんですよ!』
ちょっと距離が開いたような気がした
『映画なんてぇ~のは、好きですか?』 少し酔ってきたかな
⇒『大好きですね グラディエータ・ショーシャンクの空に・パピヨンなどなど感激した映画です。映画は必ず一人で行くんですよ。感動する場面では思いっきり泣きたいから、ちょっと恥ずかしいけど』
『私も映画な大好きなので、2時間ドライブして釧路の映画館に行くことがあるんですが、最近はドライブが面倒になって来て封切の映画を見られなくなってきているんですよ。
情熱の欠乏か年を取ったせいかな? でも別海の街にもレンタルビデオ屋さんがあるんで、ちょっと待てば話題の映画は観ていますよ!』
また近づいた
『小説読むのは好きですか? 私は恋愛小説や推理小説が大好きで、別海の本屋さんでは物足りず、釧路に出かけた時には必ず本屋さんに寄って話題の本を買ってくることにしてるんですよ。 夜中にオペラを聞きながら恋愛小説を読むときには幸せを感じますよね!』
⇒『私も本を読むのが大好きで、日本の時代小説は藤沢周平・司馬遼太郎・池波正太郎・葉室麟など読み尽くしたのですが、乙川優三郎など若手が出てきて楽しみにしているんです。海外の推理サスペンスも大好きです。が、モロ恋愛物語は映画もそうですが苦手だなぁ~』
距離感微妙
『酒を飲むのも好きで、ビールからワイン、ウィスキーまでなんでもいけるんです。休みの日の夜、家内と一緒に白ワインを楽しんでいます。勿論オペラを聞きながら』
⇒『私はウィスキーが一番好きで、夜ジャズ(こだわるほどの知識は無く、なんとなくの雰囲気に浸っているだけ)を聴きながら、ウィスキーのストレートをグビグビやって、
翌朝ちょっとだけ後悔してしまう欠点があるんですよ!』
仲間意識は固まった

3泊4日の支援だったが、私が行ったときは必ず山内先生が食事に誘ってくれた。
繁華街方面とは反対方向の“双葉”と云う寿司屋がいつもの場所となった。
寿司以外にもいろいろ出してくれるお店で、オヤジさんの気さくさが魅力だった。
道東では有名になっていた“ジャンボホタテバーガー”発祥のお店だという。
何とも個性的な寿司屋さんなのだ。
山内先生同様仲良しになって、その都度東京のお土産をお店に持参するようになった。

支援二日目には、午後半日フリーな時間があった。 しかも病院のセダンが借りられた。
派遣で別海を訪れるたびに、どこに行こうかと計画を立てながら楽しみにしていた。
先ず勧められたのは、60Km離れた“野付半島”観光だった。先端で車を降りて更に歩くこと20分で、トドワラ(立ち枯れたトドマツ林の跡で、トドマツの残骸が湿原上に立ち残り、見たことのない荒涼とした特異な風景を形作っていた)に驚いた。ここから16km
ほどの海の先には国後島が望めた。
“摩周湖”は、ほぼ真っすぐの一本道70Kmだった。冬に訪れたこともあり、雪に囲まれたその素晴らしい展望台からの風景はアルバムに残っている。
根室の納沙布岬までは、太平洋を目指し30Kmで厚岸を左に折れて更に50Kmで到達した。
これより15年前に家族で訪れた時に『もう二度と来ることは無いだろう』と思ったのだが、結局その後4度も訪れる機会に恵まれた。
知床半島の羅臼を右折し太平洋側に沿って更に1時間走ると、日本最東端の温泉“相泊(あいどまり)温泉”に辿り着く。岩だらけの海岸沿いに小さな脱衣場があった。
この日は誰もいなかった。タオルを始め入浴セットを持って来なかった(温泉だからきっとあると先入観から)ことを思い出した。
素っ裸になって、足元の岩や石ころに気を付け乍ら30m先の海に接して掘られた温泉に
浸かった。
洗い場はなく湯に浸かるだけだが、目線に海が広がる風景は十二分に“来てよかった感”が漲った。
着ていたTシャツで身体を拭いて、絞った後またそれを着て運転台に座った。

羅臼まで来たときにふと高校時代の一場面を思い出した。
学園祭の出し物に演劇部の【ヒカリゴケ】というのがあり、きっと熱心に見たのだろ、
記憶が強く残っていた。
【ヒカリゴケ】は小説家の武田泰淳が1964年に発表した作品とあった。
雪と氷に閉ざされた北海の洞窟の中で、生死の境に追いつめられた人間同士が相食むにいたる惨劇を通して、極限状況における人間心理を真正面から直視した問題作だ。
その北海の洞窟のモデルとなったと云うのが、羅臼にあった。
その洞窟を訪ねて行ったが、まだ日が残っていたためか覗き込んでも〈ヒカリゴケ〉は
光を放っていなくて確かめられなかった。
しかしいかにも遭難した漁船の乗組員が命からがら辿り着いた陸の孤島の洞窟という雰囲気はあった。
なぜにこの演劇が心に残っていたか?
一つには演劇部員の演技とはいえ、生まれて初めて真剣な舞台を見たこともあったが、
演劇部のスター的存在に山口純子(仮名)さんがいたからかも知れない。
高校1年生の同じクラスの、すぐに男子生徒から人気者になった山口純子さんだ。
徳島市内の有名な中学校から入学してきた典型的なお嬢さんだった。
私の田舎の中学校には“純子”という女子は居なかった(順子・淳子さんは居たのだが)。
眼が大きくて、清純美人そのもので、言葉が大人びていた。
彼女は演劇部に所属し、すでに1年生でスターだった。
演劇部の練習舞台が体育館だったこともあり、雨の日の野球部が体育館でストレッチなどをしていた時に、『まぁ~ あなたたちは酷い匂いね! 1日に二度はシャワーを浴びるものなのよ!』というセリフ(あくまでも演劇上のセリフの練習中であって、我々野球部相手に発した言葉ではなかったと、今でも信じているが…)が聞こえてきてカッコよかった。

後日談
高校卒業10年後の同窓会では、挨拶されたが化粧がケバくて誰だか分らなかった。
20年後の同窓会では、残念だが皆が避ける様な面倒くさい人になっていた(欠席した私に噂話として伝わってきた)という。
以後噂は伝わってこない。

閑話休題
別海病院の近くにある“フクハラ“というスーパーも大きくて、ビール・おつまみの買い出しにはとても便利で、支援の度に行っていた。
スーパーに行く途中に【魚屋一番】という魚屋さんがあった。
たまたま宿泊時(勿論当直業務が無い夜)に、酒の肴を求めて覗いてみた。
びっくりしたことに毛蟹の剥き身200gがパックに入って商品ケースに並んでいた。
蟹は、特に毛蟹は好きだが、殻から身を外すのが面倒だと思っていた。
それでもタラバ蟹の足は比較的楽だが、毛蟹は大変だと思っていたのにそれが剥き身で売っていたのだ。
しかも1パックが1000円と、蟹缶の値段と比較しても驚くほどで関東に住む我が財布には格安だった。男が食品の値段に詳しいのは、ちょっと恥ずかしいのだが…
交渉すると、冷凍で発送してくれるという。 家人の機嫌を取るには最適と判断した。
今でも年に2~3度(その頻度で機嫌を取る必要を感じているということか?)は注文して冷凍宅急便で送ってもらっている。

通算10回は支援に行っただろうか?
支援の終了が決まった最後の宴会を、仲良しこよしの山内先生と二人で、いつものように寿司屋の”双葉“で開催した。
オヤジさんも交えて別れの酒を酌み交わしていた時に、お互いの歳のことが話題になった。
それまでなんとなくオヤジさん>山内先生>私の順だと、私は自信をもって推測していた。
『それじゃあ イチニノサンで 正直に それぞれが自分の歳を宣言しよう!』
⇒結果は、予想とは真逆であったので、3人とも(私以外の二人もそれなりに自信があったようにも思ったが)驚いて、宴会は終了した。

山内先生とは、今でも時にメールを交わしている
“神の気まぐれ”は二人をうまく引き合わせてくれたのだ

Betsukai Hospital Blues         DR.住永 作詞真似事

別海周辺 観光スポットたくさんあるぜー
夜の温泉つかりゃあ 楽しいぜー
シマフクロウにもあえるぜー
昼のドライブ 平野をぶっ飛ばせー
気が付きゃ パトカーすぐ後ろー
窓を開けたら ハエに気を付けろー
ここは別海みんなのHospitalBlues
鮨屋の双葉は“ジャンボホタテバーガー”喰わせるぜー
別海夜の飲み屋は 朝まで歌えるぜー
朝から病院 忙しいぜー
別海ダニは 示指頭大ほどでっかいぜー
朝も昼も夜も 病院働いているぜー
休日も働く別海HospitalBlues
遊ぶ暇ない別海HospitalBlues
ここは別海みんなのHospitalBlues

ジビエのルイベ

平成元年9月に郷里徳島で地域医療の現場として働いていた町立病院の外科医長(と云っても医師10年目の若手外科医で、他には内科院長との二人体制)から、当時の大宮市に新設された母校自治医科大学の第2附属病院【大宮(現さいたま)医療センター】の外科講座の助手として上京(?)してきた。
開院式を同年12月に迎えたのだが、出来上がったばかりの新しい大きな病院で働くことはワクワクするほどの魅力にあふれた毎日だった。

当時の同僚に麻酔科の小野寺先生がいた。
同僚と云っても5歳ほど年長の温厚な麻酔科医の先生だった。
北海道帯広の浦幌町出身で、町の奨学金を頂いて信州大学を卒業した後に創立したばかりの自治医科大学麻酔科に奉職し、第2附属病院【大宮(現さいたま)医療センター】の新設時に教員の募集に応じて講師として移動してきた変わり者だと、大きくて優しそうな
眼をクリクリさせながら自己紹介された覚えがある。
ある時(30年近く昔だったかな?)、小野寺先生から声を掛けられた。
『住永君、実は頼みがあるんだけど。当然聞いてくれるよね!(えっ? その内容にもよりますけど…) 奨学金を出してもらった恩義のある浦幌町からまた診療支援の依頼が
あったんだよ。今までは自分が何とか年休を取って行っていたのだが、今回に日程期間中は学会開催日と重なっているし、浦幌の病院では外科手術の業務もあるらしい。
麻酔科の私が、緊急手術などの時にも文句も言わず外科医を助けてきたことは、よぉ~く
解っているよね!』
当然ではあるが『はい、喜んで!』との返答以外の選択肢はなかった。
もっとも、行ったことのない北海道の街は、それだけで私には魅力であったことも事実だ。
6月頃だったように思うが、無理やり早めの夏休み休暇と年休をとって、支援要請に応じた。
昼頃には帯広空港に着いて、予めキーを渡されていた(小野寺先生が広い空港の駐車場のどこかに駐車しておいたと申し送られた)車をやっと見つけて浦幌町を目指した。
勿論ナビなどの無い頃だった。
ダッシュボードには懐かしの道路地図帳があり、帯広までの45分の行程が赤鉛筆でなぞってあった。
途中にはその頃既に有名になっていた池田町のワイン城があった。
これを目印に右に曲がり南下すると浦幌町に到着、すぐに町立病院事務室に訪いを入れた。
その日午後には仕事はなく、事務長さんと院長先生が夕餉を共にしてくれた。
海に近い浦幌の街中には、新鮮な魚介類と提供する小料理屋が数件並んでいた。
そのうちの一つに予約をして頂いていたが、到着した時にはテーブルに御馳走がふんだんに盛られていた。カニが豊富で毛蟹・花咲蟹、タラバガニも勿論並んでいた。
時期的には名産のサンマは無かったが、浜から上がったばかりの新鮮なホヤの味は格別
だったし、大きな夏牡蠣にも驚いた覚えがある。
お酒はきっと北海道の銘酒“北の勝”の冷酒が出てきたのだと思うが、今思い出せないのが残念だ!
翌日の外科外来診療支援と、午後の胆嚢摘出手術(その病院の院長先生は麻酔の出来る内科医で、普段の外科手術は札幌医大からの派遣外科医が実施していたが、何らかの事情で派遣が無くしかも手術は延期できない事情があった)を、無事実施出来たので、夜はフリーとなった。
街灯の明かりに誘われて夜の浦幌の街を彷徨い、昨夜に行った小料理屋を目指して歩いたが、実際には隣の飲み屋に入った。
どうせならいろんな夜(変な意味ではなく、いろんな雰囲気を体験したかったと理解してほしい)を味わいたかった訳だ。
カウンター席で“ホッケのひらき”の塩焼きを肴に、一人ビールを飲んでいると、“見慣れない顔の〈若者!〉が淋しそうに思えた“のか、隣のおじさんが話しかけてきた。
『兄ちゃんはどこから来たのかな!(残念ながらその訛りは表現出来ない)』
これが“兄ちゃん”ではなく、“おっさん”“おっちゃん”とか“社長”と声掛けられたのではきっと会話は弾まなかっただろうに!
⇒『東京から来ました(本当は大宮だけど、どこに在るか知らないだろうと気を利かせた)』
『営業かなんかの仕事で、遥々浦幌まで?』
資格を担保に支援に来たわけだから、営業と云えないこともなかった(?)が
⇒『町立病院に人手がないとのことで、3日間の応援に来ました。北海道はこれまでも来たことはありますが、帯広地方は初めてです』
『それはわざわざご苦労ですねぇ~ まあ一つ飲みなさい』と云って、店主にお猪口を
一個要望してくれて、自分の飲んでいた銘酒“北の勝”のぬる燗を私に注いでくれた。
初夏にぬる燗を飲む人は、相当の酒飲みだということを私は知っていた。
そのおじさんは『自分はマタギを仕事にしている』と自己紹介してくれた。
『マタギってわかるかい?』
⇒『文字としては知っているし、意味も解ります。でも実物のマタギさんに遭遇(?)
するのは、生まれて初めてです。たいへんな仕事なんでしょう?』
『年中山の中に入っているよ。イノシシやシカやキジを仕留めては、この店にも納めているんだ』と胸を張った。
そしてこの店には品書きに”ジビエ“として、イノシシ鍋・鹿肉ルイベ・鴨肉の焼き鳥などが掲げてあった。
そこで“鹿肉のルイベ”を肴として追加注文した。
私は学生時代に“カニ族”として一人で北海道を彷徨った時に、札幌の炉端焼きで
“鮭のルイベ”を食したことがあって美味しかった思い出がある。
以後、冷凍した肉を薄くスライスして“刺身”として食べる“ルイベ”は気に入っていた。
口に含むと、次第に凍っていた肉が解けてきて、本来持つ肉の甘さが増すようでとても
上品で良い料理法で美味しいと思っていた。
1時間も酒を酌み交わしているとすっかり二人は仲良くなっていた。
これが私の得意技でもある。
親の年代なら年齢差の敷居を意識するのだが、おじさん(年齢差15歳程度)なら、緊張はしない。
『兄ちゃんは“鹿の肉”欲しいか?』
図々しくも、暖かい申し出は断らない主義(断れない性質)の私は
⇒『ありがとうございます』と酔いに任せて返事をしてしまった。

その年の初秋だったと思う。
職場から帰宅すると、家内が『何か重たいものが入っている段ボールが冷凍の宅急便として届いているよ。何なの?』
40㎝立法の段ボール箱の重い荷(20Kgはあったように覚えている)で、送り主は町立浦幌病院事務長さんだった。
添付の手紙には『マタギの何某さんから私に届けてほしいと依頼された』とあった。
開けてみると冷凍した鹿の肉がぎっしりと詰められていた。
狩猟で得た鹿1頭分の、どこだか知らないけれども“ルイベ”として美味しいところの
肉塊なんだろう!
焦った。
こんな量を確保して置ける冷凍庫は、我が家にはない。
我が家に限らず、一般の家庭にはないだろう。
分けて仲間に配ろうか?
でも冷凍の肉の塊をどうやって切り分けるのか?  どうしよう?
その時、うまい具合に閃いたことがあった。 “窮すれば通ず”だ。
大宮の“南銀”と称する歓楽街に【日本料理の田中】という小料理屋があった。
気安く利用できるコストパフォーマンスの高いお店なので、医局の会合などで何度か
行ったことがあった。
小料理屋に電話を掛けて“大量の冷凍鹿の肉”の保存をお願いしたところ、心安く引き受けてくれた。
『うちの冷凍庫なら大丈夫だから、それくらいなら預かってあげますよ!』
⇒『感謝感激です!』
⇒『仲間に知らせて【日本料理の田中】をどんどん利用するように宣伝しておきます。
せめてもの恩返しです。その際には“ルイベ”として無料でサービスしてやってくださいませ!』
勿論小野寺先生を筆頭に、仲間にこの旨伝えると、珍しい食べ物に魅せられてか『今度是非【日本料理の田中】に行ってみるよ』と反応良好であった。
なかには『結構美味しいものだね。“シカ肉のルイベ”というやつは!! また行ってみたくなった』との声も聞こえてきた。
1か月後だったか時間が出来たので、外科医の後輩と二人で【日本料理の田中】に行った。
私と同年代の【日本料理の田中】の女将さんが、ニコニコとして云った。
『たくさんのお客さんを導いてくれてありがとうございました。でも、先生! 間に合ってよかったですね。 鹿肉ルイベはあと500gくらいしか残っていませんよ』
⇒『えっ そんなに食べられた(食べてくれた)の!』
貴重な残りを滑り込みセーフで間にあって、二人でたいらげて満足を得た。

このことが縁で、【日本料理の田中☞ソニックシティ北隣に移転し新規開店して、今は日本料理の“かしや”】をその後も贔屓にしていて、足掛け30年の常客として扱われている。
時には“営業部長”として遇してくれている。
いろんな仲間との定期懇親会を私が企画しているから…?
冬には“鮟鱇鍋”夏には“鯛ずくし”秋には”マツタケ“などを安く提供してくれるので、
企画する懇親会は平均月1回の頻度にもなったことがある。

本来“和食料理”との看板を掲げているが、5年ほど前から特にお願いして
“住永の裏メニュー;つまり品書きには載せていなくて、住永だけが予約して注文できる
〈秋田短角牛の肩ロース赤肉の500gステーキ〉“を創って頂いている。
なぜか?
ステーキに関しては、還暦を過ぎて我が眠れるイートファイター魂に火がついてしまった。それは母校の元病院長の長谷川嗣夫名誉教授が嘗ての呼吸器内科鬼軍曹の石原照夫先生と小生を、茗荷谷のステーキハウス“イノウエ”(小山のステーキハウス武蔵野の兄弟店)に連れてってくださったことが切っ掛けだ。
しばらくは(40年近くに亘って)ステーキを重さで食べていなかった小生に対して、マスターは『何グラム食べますか?』と聞いてきた。
イメージが湧かなかったが、一番大きいということで『250gお願いします』と答えた。
赤みのロースで美味しかった。
『お客さん早いですね! もっと召し上がりますか?』と聞かれて、『なら150g追加してください』と云ってしまった。
が、これもペロッと食べてしまった。『お客さん、よく食べましたね! でももう無理でしょう?』と煽られてしまった。
ここで40年前の実力のあった頃の感覚が蘇ってしまった。
『それではあと200g追加でお願いします』
どうもこれが、茗荷谷のステーキハウス“イノウエ”の記録(還暦過ぎた食客として?)となっているらしい。
この日以来、ステーキに対してやたらに意欲が湧いてきた。
肉はロースやヒレではなくて赤みの部分で、厚くなければ闘志が湧かない。
転籍したこともあり茗荷谷は少し遠い。
それで『ステーキの宮』『ステーキのどん』『ステーキハウス ブロンコビリー』『いきなりステーキ』など、うまいステーキを求めて転戦したがどうも求めるものに辿り着かない。
それで30年来の馴染みの日本料理『かしや』に相談した。
しっかり者で若いころはさぞかしもてたであろう女将と気風のいい板長さんが快く申し出を受けてくれ、試しに肉を取り寄せて焼いてみてくれた。
そして銘柄5番目にやっと満足のいく肉に到達した。
『秋田の短角牛の肩赤み肉;1ブロック7㎝程の厚さで550g』だ。
レアに近いミディアムレアで噛みしめるように肉を食んでいるとライオンになった気分だ。美味い! ここまでに至ってあることに気が付いた。
赤みの厚い肉はスパッと切れるナイフの方がきっと一層美味いだろうことに。
通常のノコギリ様のステーキナイフでは肉の細胞が壊れているのではないか?
ネットで調べてみると、刀鍛冶の流れを汲む工場が作っている“藤次郎”というステーキナイフを見つけた(実はこれに行きつくまでに2本ほどダメ出しをしている)。
“藤次郎”は7㎝の厚いステーキをスパッと切ってくれる。これで肉のうまさが一層増したように思う。
そして“藤次郎”をマイステーキナイフとしてお店に預けている。
このステーキを一緒に食する会を“ライオンの会”と称している。
メンバーは現在の所45名になった。実は結局のところ“藤次郎”を7本に増やしている。それで“ライオンの会”は一度には6人しか誘えない(もちろん私は毎回メンバーだ)。
つまり同じメンバーとはなかなか会えない(年に1~2回?)。
私が頑張って月2~3回企画してもこの盛況だ。

それでも今のところ続いているのは
ジビエ“鹿肉ルイベ”に出会った幸運な胃袋のおかげかな?

カニ族彷徨記

“カニ族”彷徨記  1

1971年に栃木県那須出身である高野悦子の遺書ともいうべき『二十歳の原点』というタイトルの本が出版され、話題となった。その時私は大学生になったばかりで、しかも栃木の、それも県の畜産試験場(牛の放牧場)跡に建設された大学キャンパスと、全員が入るべき学生寮での生活が始まっていた。新設大学であり歴史がないだけに縛りを感じることも少なく、いろいろと試行錯誤あるいは冒険のできる環境とも云えた。すでに実習が始まっていて忙しい日々ではあったが、“大学生なんだから本はいろんなジャンルのものをどんどん読まなければ”という強迫観念的思いが募り、それまでの読書量の少なさに負い目も感じていた当時、ベストセラーは取りあえず何でも読んでいた。『二十歳の原点』は当時の成人の日であった1月15日に著者の書いた、「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」という言葉が心を捉えて、多くの学生に読まれた。そして『二十歳になったら“一人”で旅に出よう!』というキャッチフレーズが生まれ、学生の北海道一人旅がブームとなった。感受性豊か(?)で素直な、あるいは単純で影響されやすいとも表現できる私は、二十歳の誕生日は一人で迎えようと1973年の夏、休みに入ると直ぐにリックを背負って一人初めての北海道へ旅立った。本当はこの旅で成長した自分を見せたい人がいたのだった。その頃背中の横左右にはみ出る大きなリュックサックを背負って北海道を旅する若者を“カニ族”と言った。今ならデイパックを背負うのだろうから、カニ族とは呼べない(?)だろう(ミノムシ族?)。その後10年ほどはオートバイで北海道を旅する若者にブームは移った。“ハチ族”とその呼び名も変わった。説明するまでもないのだがブンブンというオートバイのエンジン音からきている“ハチ族”だ。その後は更に贅沢にも車で北海道を旅するのが大学生の文化となったようだが、贅沢に過ぎるとのやっかみもあってか、彼らに“愛称”は生まれなかった(付けるなら“ハコ族”or虫の名前なら“カブトムシ族”か?)。
1973年7月18日水曜日(夏休みに入っていた)に“ドライブイン倉井”でのアルバイト(皿洗いではなくて、ご子息中学生の家庭教師)を午前中に終え(こなし)て、宇都宮から東北本線の急行に乗った。そして夜、寝袋の入ったでっかいリュックを背負って仙台駅に降りた。翌日の朝青森までの特急に乗るための途中下車だった。乗車券は宇都宮からの往復北海道周遊切符だった。仙台の夜はこれといった予定は立てていなかった。駅前の立ち食いソバ屋で夕食として“キツネそば”を食べた。大学は栃木県にあったが、それまでは四国徳島で育った私だ。つまり、徳島でなら、こんな時は当然“タヌキうどん”を選択したに違いないシチュエーションだった。夜は仙台駅の構内で寝る予定だった。東北新幹線が未だ開通していない(開通するのは11年後の1982年6月)その頃は、構内野宿が黙認される時代だった。最終電車が到着し、駅が静かになるまでの時間つぶしを考えた。やはり映画鑑賞が手っ取り早い。案内書で映画館を探した。繁華街にあった映画館はすぐに見つかった。映画館には『ポセイドンアドベンチャー』が掛かっていた。前年に見て気に入った映画『フレンチ・コネクション』で、やたらと走りまくる刑事役で主役だったジーン・ハックマンが、この映画でも主役だった。今度は牧師だったが、【神は一人ひとりの面倒を見ている暇はない。人間は自ら努力して苦しみを解決しなければならない;つまりGod helps those who help themselves 天は自ら助くる者を助く】との信念を持っていた。これは聖書には無い言葉であり、キリスト教の教えとは異なる独自の思想の牧師という役柄だ。「神は弱きものは救わない」と遠回しに弁舌している為に教会から左遷され、アフリカに向かう為ポセイドン号で移動しているという設定だった。彼はこの思想ならではの励ましで、老婦人に勇気を与えて果敢な行動を促し、自らは犠牲となるが、転覆した豪華客船から何人かを救出する場面は感動的で、今でもよく覚えている。映画で満足な気持ちとなり、駅構内に帰る途中「ワンカップ大関」で喉を潤し一層の幸福感を得た。仙台駅構内には既に何人かが場所をとって寝ていた。必ずしも若者だけではなかったが気にもならず、2本目の「ワンカップ」でぐっすりと眠れた。
翌日は仙台から急行に乗り、盛岡を通り過ごして青森まで行った。青森で乗り継ぎ時間が迫っていたので青函連絡船に飛び乗った(従って25年程経てから学会で青森を訪ねたが、何も覚えていなかった)。函館では港近くのユースホステルに宿泊した。翌朝は前もって調べておいた朝市でイカソーメンを食べた。トラピスチヌ修道院を訪ねて、友人への土産とするつもりで有名なクッキーを買ったが早計だった。旅の途中で食費を浮かせるために結局はみんな食べてしまった。人はこういう経験から学習するものなのだ(ろうか?)。函館からは函館本線に乗った。最初に下車しようと決めていたのは長万部(おしゃまんべ)だった。長万部駅で列車を降りて、街道を歩いていくと、藁筵掛けの小屋で蒸した毛蟹を売っていた。1匹500円だった。「お兄ちゃんはどこから来たの?」本当は栃木だったが、徳島と言ってもまるっきりの嘘ではないと咄嗟に考えた。「徳島から毛蟹を食べるためにここまで来ました」おばさんはいい人だった。「遠いところから大変だったねぇ! それにしても美味しそうに、残さずきれいに食べるもんだねぇ~」。子供のころから食べっぷりがいいと褒められ、嫌いなものがなく何でもぺろりと食べる特技がここでも活きた。「もう一つ食べていくかい?」私は「はい 喜んで」と勿論おもいっきりの笑顔を添えて答えた。カニ族が本領発揮したと思っていいのだろうか?

“カニ族”彷徨記  2

長万部で”カニ族“の正体を披瀝(思わず暴露?)した後は再び函館本線に乗り込んだ。それまでの列車の旅は右手に内浦湾の海辺を眺めながら走っていたが、ここで大きく左に折れて我が乗る列車は山の中を走行し始めた。7月下旬の山あいはまだまだ緑豊かで、窓を開けて走る列車にはまさしく薫風が流れ込んできて心地よかった。札幌まで特に予定を決めていなかった旅だったが、乗車後2時間ほど経過した時に、やや間の伸びた車掌さんのアナウンスを聞いて急遽降りることにした。【ニセコ駅】だった。大学生活でスキー文化に初めて出会ったのだが、その経験は当時まだ猪苗代スキー場に連れて行かれた1回だけだった。ただ誰かから『北海道の雪はアスピリンスノーと云って本州の雪とは質が違う。特にニセコスキー場の雪はすごくいいらしいぞ!』と聞かされていた記憶がふと蘇り下車したのだ。勿論夏だから下車する観光客は殆んどいなく、木造の駅舎は閑散としていた。板張りの壁には少し剥げかかった案内板がスキー場行きのバスの発着時間を示していた。次の列車までには2時間程あったかと思う。少し歩いてみようと考え、駅舎を出た。左に曲がって線路を越えて北に向かうとニセコアンヌプリが聳えるニセコスキー場方面なのだが、右手からリュックを背負った数人のハイカー達がまとまって歩いてきた。『この辺りを観光するならどこがいいですか?』と聞いてみると、『羊蹄山のハイキングが最高だよ!』と教えてくれた。ただ彼らの服装から推察すると、十分な計画を練っての夏山登山のベテランに見受けられた。大学入学時に”ワンダーフォーゲル“という言葉を初めて耳にした程度の田舎者で、ハイキングの趣味はなかった私はこの瞬間少し腰が引けてしまった。教えに従って取り敢えず羊蹄山のふもとまでは独り歩いて行ったものの”意気地なし“との悔しさを抱きながら”トボトボ“と引き換えしてきた。すれ違うこれから登ろうとする人々には、『羊蹄山のハイキング』を一人で遣り遂げた末に疲れ切って帰途に着いてるワンゲル部員に見えただろう、きっと…。
その日は予定変更しニセコで宿を探してユースホステル“まつかり”に辿り着いた。ユースホステル会員証は、猪苗代スキー場に行ったときにゲレンデのユースホステルに宿泊するために取得していたのが役立った。宿泊のメンバーには、女学生3人のグループと男子学生5人のグループが居た。生来内気で当時無口だった(今でもかなり!?)私は、“一人旅”に(“二十歳の原点”に)拘っていたこともあり皆に馴染むこともなく、なんと女学生に話しかける勇気も出ずに、夕食後のフォークソング合唱も聞くだけにして、早々と部屋に帰って2段ベッドの下に潜り込んだ。洗いざらしたシーツの冷ややかな感じが今でも蘇ってくるような気がする。翌朝食事もそこそこに一人済ませた。なんだか“一人旅とは孤独でなければならない”とでも決めていたかのように誰よりも早くユースホステルを出て函館本線の列車に乗り込んだ。
小樽は通過しただけだった。初めて覚えた歌謡曲で、小学校3年生の時に町内会の寄り合いで集まった子供を連れたオバサンたちの前で歌い、その場に居た母親から「小学生が唄う歌じゃない!恥ずかしいからやめて!」の声を振り切り最後まで節をきかせて得意気に謡ったのが“錆びたナイフ”だった。『♬~ 砂山の砂を指で掘ぉってたら~ 真っ赤に錆びたジャックナイフが出てきたよ~♫ 』 それを唄って自信(?)を持った私は、石原裕次郎の歌は殆ど覚えて口遊んでいた。ただ、小樽に『石原裕次郎記念館』が出来たのは平成になってからであり、「カニ族彷徨旅行」の頃は、裕次郎が子供の頃ここに住んでいたという知識もなく、小樽にそれほどの思い入れはなかったのだろう。
小樽を過ぎては“銭函”や“星置”など魅力的な駅名に目を留めながら、夕暮れ時になって札幌に到着した。駅弁を買わずに(ニセコ駅には売っていなかった為)列車に乗っていたので空腹だった。札幌駅南口に出て札幌ラーメン横丁に入り、その頃全国的に有名になりつつあった札幌味噌ラーメンとチャーハン(多分?!)を食べた。ラーメンと云えば、母校大学近くの“レストラン倉井”でも醤油味であり、故郷徳島のラーメンも醤油味(どちらかと云うとすき焼き味)だったので、ラーメンは醤油味と決まっていると思い込んでいたのだが、味噌味は新鮮で美味しかった。今宵の寝床は札幌駅構内でと考えていたのだが、駅案内所を訪ねて確かめると、札幌駅では駅構内での宿泊が禁じられていた。仕方なく最も安い(学生でも宿泊叶う)“ねぐら”を紹介してもらった。修学旅行の高校生がよく泊まるというその古い旅館は、札幌駅の北側にあり時期的にも幸いに空いていた。その夜の腹ごしらえは、又してもラーメンと明日への意欲のために『サッポロビール生』ジョッキ3杯と“ねぐら”への土産に『ワンカップ大関』2本を追加した。
翌日は札幌観光だった。先ずは定番の北海道大学構内散策に向かった。郷里徳島の高校同級生に確か遥々北大に進学した変わり者が居たが訪ねることもなく、今ではその名前も思い出せない。クラーク博士の胸像はすぐ見つかった。“Boys be ambitious”はもっとも有名な外国人のセリフで世間知らずに育った私でも小学校で覚えた。ポプラ並木も歩いてみた。
それから駅の南口に戻った。旧北海道庁の赤レンガが、思いっきり“北海道に来たんだなぁ~気分”を演出してくれた。札幌駅南口前に“五番館”という洒落た名前のデパートが在ったのを覚えている。
1953年に『或る「小倉日記」伝』でデビューした松本清張の最初の本格的推理小説『点と線』は既に読んでいた。小説の中では当時札幌市内随一(根拠に乏しいが)の旅館として登場するのが、札幌時計台西隣りの旅館『丸惣』だ。確かここに宿泊しただろう犯人の確証を求めて、刑事が捜査に来たのだったかな? そんな場面を思い出したので、是非とも観ておきたいと探したが、その時には立派なビルディングの“ホテル丸惣”となっていた。2階にあった“ホテル丸惣”フロント窓際のソファーに座ると、時計台が良く見えたことを覚えている。 “恋の町札幌”「♬~時計台の下で逢って、私の恋は、はじまりましたぁ~♪」はきっと唄っただろうだと思っていたが、今調べてみると残念ながらその後に発表されたヒット歌謡曲だったので、“ホテル丸惣”フロント窓際では歌ってはいないことが判明した。残念だ!

“カニ族”彷徨記 3

昭和48(1973)年7月下旬の今は思い出せないある日、札幌駅から再び函館本線に乗って終点の旭川に向かった。勿論鈍行列車だったから5時間以上は要しただろう。“北海道周遊券”と云ったかなぁ~ 便利な切符だった。誰とも話さなかった二十歳の貴重な思い出となった5時間の列車行だった。誰に話しかけられるでもなく、ただただ黙っていた。“無言の行”を気取っていたかもしれない。結構印象深く残っている周囲状況と時間だ。

到着した旭川駅周辺は、予想とは違って静かだった。山に囲まれ市内を川が流れる地方都市の顔をしていたように思う。故郷徳島と似た雰囲気だった。ただ海が遠いところは違ったが。旭川ラーメン“山頭火”などは未だブームになっていなかった。旭山動物園もあったか(調べてみると1964年;東京オリンピックの年に開園)どうか? 話題になったのは改修工事(2000年頃)が終わってからかな。今から思うと全く動物園は意識外(尤も二十歳の生意気盛りには動物園に行く希望はなかったのは仕方がないかな?!) の施設だったのだろう。この時より5~6年前(私が中学生の頃)に、父親が職場の研修(と称する観光)旅行で“旭川のアイヌ集落”を訪れたことがあり、木彫りの子熊を土産に買ってきてくれた嬉しい記憶が残っていた。それで真っ先に駅前バス乗り場から30分ほどの乗車でアイヌ集落(川村カ子トアイヌ記念館)を訪れた。入り口(トーテムポール様)門を入ると直ぐに土産物売り場に入った。“ピリカ”(美しいことを意味するアイヌ語)と彫られた木彫りの少女の横顔がキュート(昔はこんな言葉は使わなかったかな?)なペンダントを、それもいろいろ探して最も可愛く彫られているものを選んで確かに買った。帰ったら真っ先に渡そうと決めていた人がいたからだ。これを買ったら、後はそれほど印象に残っていない。しかしアルバムを捲ると、アイヌの民族衣装を纏った姿が写真に残っていた。

この旅には、オリンパスOM-1というカメラを持って行った。今でも新発売されたころのテレビマーシャルを覚えている。“兄貴が買ったOM-1を弟が羨ましがる”というシチュエーションだった。大学生にはちょっと高かったが、家庭教師のアルバイトで稼いだ貯金をはたいて買った。出たばかりの小型一眼レフカメラは最高にかっこよく、その後10年間は友であり、新婚旅行にも携えたくらいだ。使わなくなって30年以上経つが、今もどこか押入れの隅に転がっているはずだ。

旭川からは石北本線の列車に乗って網走に行った。当然網走刑務所を見学した。【網走番外地】、【新網走番外地】の大ヒット映画は当時の若者として当然の如く映画館で堪能していた。高倉健のファンでもあった。今でも主題歌“網走番外地”はそらで唄える。しかし歌詞も唄そのものも石原裕次郎の方が一層好きだった。ここではペナント(細長い三角形の旗で、観光地を図柄で描いてある)を買った。当時の観光地土産の定番だった。

次いで網走からバスに乗り原生花園に行った。今では以前のような観光スポットになっていないようだが、当時は結構有名で、“網走に行ったら原生花園へ”と云うのが“カニ族”の定番コースだった。ここでは当然裕次郎(になり切った私)が登場し、
『 ♫~ 夕陽の丘の ふもと行く~ バスの車掌~の 襟ぼくろ 別れた人に 生き写し~ なごりが辛い 旅のお∼そおら~ ♬ 』と口遊むバス行程だった。尤も周りの観光客を慮って小声でそっと唄ったはずだが…。

原生花園から先の記憶がない。そのまま引き返して帰って来たのだろうか?何故か思い出せない。10日間の“カニ族彷徨の旅”には稚内や根室半島までは予定に入っていなかった。
彷徨の旅だから、“足の向くまま気の向くまま”とか、壁に地図を貼って“♬ 行方はピン投げて~決めるのさ~ ♬”などと、目当てを考えずに行き当たりばったりの旅でもよかったのだろうが、几帳面な(気が弱くて小心者)の私は、おおよその行程を決めて旅に出たような気がする。

携えた当時のベストセラー、多くの学生に読まれた『二十歳の原点』には【独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である】という言葉があった。これが若者の心を捉えて、『二十歳になったら“一人”で旅に出よう!』というキャッチフレーズが生まれ、学生の北海道一人旅がブームとなり、早速その流行に乗った私だった。
感受性豊か(?)で素直な、あるいは単純で影響されやすいとも表現できる私は、二十歳の誕生日を一人で迎えようと1973年の夏、休みに入ると直ぐにリックを背負って一人初めての北海道へ旅立った。つまり能動的に【独りであること、未熟であること】を体験したかったのだ。

その収穫は? 生まれて初めて一人で旅した(故郷と大学の往復路は別として)。家族或いは友人と離れた10日間を、敢えて孤独を求めて過ごしたことで得たのは何だろう?
殆んど人と話をしなかった10日間だった。【独りであること、未熟であること】をこの時、真に理解していたのだろうか?

夏休み初めの“カニ族彷徨の旅“を終え、取り敢えず栃木の大学学生寮に肉体的・精神的に健康で帰還した後、急いで荷物を纏め直して故郷の徳島に帰った。ペンダントを渡すべき人は、春に2泊3日の京都旅行を共にした高校卒業時同じクラスの、勿論女生徒だった。そばかすのある右横顔と少し上向きの尖った鼻が“ピリカ”に似て可愛かったことを実は今でも思い出すことができる。帰省後直ぐに連絡を取って会うことにしたのだが、なんだか予想していなかった風が吹いていた。いろいろなことがあって、結局は“ピリカ”を手渡しすることに至らず、その人は去っていった。

【独りであること、未熟であること】を痛烈に受動的実体験し、そして実感して残りの夏休みを耐えた。
“ピリカのペンダント”は、暫くは机の引き出しの中に在ったはずだが、いつしか失くしてしまったようだ。
“過剰な想いを込めたものを他人に押し付けてはいけない! 過剰は罪 なんだ! ”と
学んだのはずっと後になってのことだった。

【原生花園からの記憶がない】ことの考察
さて突然45年後の現在、つい今しがたのことに関して記銘できていないことに気付く回数が増えてきた。還暦を過ぎて到達した記憶力低下の現実だ。一方、過去に関しての記憶は比較的保たれていて想起できるものだという。なら昔のことだから覚えているはずなのだが…。

そうか! 今思い当たった。強烈な衝撃(ラグビーの試合中に倒されて脳震盪を起こしそれまでの試合中の記憶を失った経験がある)的失恋により“逆行性健忘現象”が発生したに違いない。

座右の銘

過日、後輩から唐突に「座右の銘」を求められた。
一瞬戸惑い、そして『誠実』と答えてしまったのだが、なんだか照れ くさく赤面した次第である。
さて諸兄諸姉なら如何様に返答されるだろうか?

「座右の銘」という言葉とその意味を知ったのは中学1年生の頃と  思う。
初めて宣言したのは「何事にも全力で尽くせ」との意味で『DO MY BEST!』と書いて机の前に貼った。習い始めた英語を使うのが嬉し  かったのだろう。
当時野球部の投手をしていたのだが、かわすことを知らず何時も全力投球の真っ向勝負だった。『DO MY BEST!』のマジナイから抜け出せなかったのかもしれない。
そのうちに肘を壊してプロ野球選手への道(?)を早々に諦めてしまった。
高校1年生の冬には『初心忘れるべからず』と書いた。
県立の進学校だったからなのか入学式後クラスの顔合わせ時から将来の職業について確固たる信念を語るニキビ面のませたガキが多かった。
田舎の山から下りて来て都会(?)に迷い込んだ朴訥無知な小生はウロウロするばかりだったが、仕事の成果が永く造形物として残ることに魅力を感じ、しばらくすると「建築家を目指して、大学は工学部建築科に!」と宣言していた。
しかし現実にはデザイン力や美的センスに自信もなく、デッサンも下手であることに気づいて建築家は遠い夢に終わらせるのが妥当と悟った。
大学進学後は『一隅を照らす』という言葉に出会い、魅力を感じて一時期机の前に貼っていたことがある。
「古人言く、径寸十枚、これ国宝に非ず。一隅を照す。これ則ち国宝なり、と」(「径寸」とは金銀財宝のことで、「一隅」とは今あなたのいるその場所のこと)は、比叡山を開いた最澄の言葉で、家庭や職場など自分自身が置かれたその場所で精一杯努力し明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも変えがたい貴い国の宝であるという教えだ。
人生修行の至らぬ二十歳そこそこの若僧が「座右の銘」とするには地味すぎたのか、いつのまにか机の前から消えていた。
その後何度も書き換えたように思う。
要するに何か言葉で律することがないと青春の溢れるエネルギーをコントロール出来ず、野放図で放逸な人生に囚われそうな不安があったのかもしれない。
社会人になり転勤などを繰り返しているうちに、机の前に「座右の銘」を張り出す習慣はなくなっていた。
ただ、日々の拠りどころとして心の中には何か意識する言葉はあったように思う。
卒業時に学長(当時中尾喜久先生)から、「医師の仕事(特に臨床医)は聖職であり、『先ずは患者のために』という気持ちを忘れないように」との訓話があった。
「常に患者のために何ができるか?を自らに問いなさい」という教えを授かった。
「病に悩める人の役に立ってこその医師免状だ」と決め、先ずは『人に対して誠実であれ』と心に刻んだ遠い日のことを思い出す。
問われて咄嗟に出た『誠実』はこの記憶が残っていたのだろう。振り返れば、蓋し汗顔の至りだ。
最近、「伊達政宗五常訓」と云うのを知った。
“仁に過ぎれば弱くなる、義に過ぎれば固くなる、礼に過ぎれば諂い(ヘツライ)となる、智に過ぎれば嘘をつく、信に過ぎれば損をする”
なるほどその通り。いろんな人生経験を積んでこそ得られる老人の心境にすーっと納得ができた。
見ためはどうであれ、そんな歳になったのだなぁ~と得心した。

諸事への対処の仕方や物事の判断に於いて自分なりの基準は持っているつもりではあるが、それを短い言葉で表現することはなかなかに難しい。 「座右の銘」とは常に自分の心に留めておいて、戒めや励ましとする言葉であるからには、実践が伴っていなければならない。
【 黙して之を成すべし 】

『 ある臨床外科医の背景/信念と自戒の言葉 』と小括したものの 後半の人生にも思わぬ変遷がもたらされた

これは5年程前に大宮医師会誌に投稿した原稿です。
この頃には生涯勤務医で終わるつもりであったのだが、将来のことは誰にも解らないものと今では実感している。

子供の頃、周囲に銀行マンや教育者の縁はあったが医療従事者は居なかった。
ただ風邪を引いて寝込んだ時に往診してもらってお尻に痛い(ペニシリン? 怖かった!)注射を打たれたり、自転車で派手に転んで膝を擦り剥いた時に処置(赤チン&ガーゼ;ソフラチュールは未だ無かった)のため通院したこともある、田舎の小さな町で一番評判の良かった開業医の先生には、その子息が同年代であったこともあり随分と可愛がってもらった。
ある時など下校時に、オートバイで往診に出かける先生を見つけてそのオートバイの後ろに乗っけてもらい、遊び仲間に胸を張ったこともあった。

将来医師に成ることも一つの道だと初めて意識したのは中学3年生の夏休みの時だ。
小さい頃から遊びと云えば野球で、中学生では当然の野球部でずっとサウスポーピッチャーだった。
理論的で的確な指導者などいない時代だ。
力任せにストレートを投げ、無手勝流のカーブ・シュートを投げていた。
そして必然的に肘を壊し、何と夏の県大会終了後には手術を受けざるを得ない破目に陥った。
この経験直後には『将来医師となって、全国の故障した野球少年を救いたい』と決心した(?ような)一瞬があったと記憶している。
ところが高校入学後は『仕事の結果が形として残ることにこそ魅力・意義がある』という気になり、建築家になることを夢見た。
だが小学校の頃より「図画」が極めて不得意で、高校2年生の美術の課題として石膏のビーナス像のデッサンを描いたのだが、誰からも『全く以て下手』との評価を受けたことをきっかけに、己の美的センスの欠落に気付いてしまった。
これでは建築家としての資質に欠けると自己判断し夢を諦めた(その後少し早まったかもしれないと後悔の念も沸いたが…)時に、医師への道も考えたことがあったことを思い出した。

自治医科大学に進学し、それも2期生というどうしても肩に力が入ってしまう創立期メンバーの位置にいた。
医師を目指す過程で考えていた事にはいつも、『果たしてまともな医者になれるだろうか』『何を専攻することになるのかしらん』そして『将来開業するか或は勤務医で通すか』があった。
大学先輩の医師がまだ誕生していない中、将来の医師像はなかなかうまく描くことができなかったのだ。
しかし全国の地域(その当時は僻地)医療を担うことが大学設立の趣旨であるからには、今でいう総合医が求められるのだろうと推測はしていた。
マイナーな診療科ではなく、内科系か外科系かと肌に感じていた。
ならばと、ここでも中学生の手術体験に基づき早々と外科系に決めた。

結局整形外科ではなく外科を選択し外科系総合医を行くべき道と決めて地域医療に携わっていた。
僻地の診療所では、整形(内科?)外科・泌尿器科・皮膚科など外科系診療科以外にも小児科も担当(大丈夫だったかなぁ~)していたこともあった。
その頃に遭遇したある患者さんとの交流で強く意識した『心情』こそが自分の信念であると確認し、その後もそれをバックボーンとして堅持することとし今に至っている。
その時の出会いを『 忘れえぬ患者さん;病棟での盃 』と題して、ある雑誌に投稿した。

【 30年ほど前のことです。私は故郷徳島県南の海辺の町で30床程の町立国保病院に一人外科医長として勤めていました。
そこは四国八十八ケ所第23番霊場薬王寺もある風光明美な港町です。
患者さんは52歳の男性でした。
彼は太平洋から紀伊水道に流れ込む荒波に削られた千羽海崖(かいがい)や点在する小島などを巡る小さな遊覧観光船の船長を生業としていました。
仕事が終わった夕刻には、港近くの寿司屋で一杯飲むのを殊のほか楽しみにしていた陽に焼けた海の男でした。
その寿司屋で初めて出会い何度か同席し盃を交わしながらお互いの日常を語り合う内に、20ほどの歳の差は有りましたが友情というものを感じる一人となっていました。
ある時「この頃酒が旨くないなぁ~」とこぼしていたのを聞いて、「たまには検査をしたほうがいいんじゃないの?」と誘い、軽い気持ちで習い覚えた胃カメラ(当時はまだそのように呼称していた)検査をしたところ、胃体部から前庭部に広がる潰瘍性病変を確認しました。
進行胃癌でした。
直ぐに医局の先輩が外科部長をしている30km離れた総合病院に紹介し、手術時にはそのメンバーにも入れていただきました。
既に肝転移、腹膜播種を来していましたが、潰瘍面からの出血もあったため胃切除術は行いました。
術後3週間で港町の病院に帰ってきました。
気持ちは強く持っていましたが、徐々に腹水貯留が目立つようになり、黄疸も呈してきた頃です。
「飯は欲しくはないが、酒が飲めたら元気が出るんじゃがなぁ~」と言って家族を困惑させたのを聞いた私は、病院長に交渉して個室での飲酒に目をつぶっていただくことになりました。
しかし実際には飲むことなく、ただ飲んでもいいよと言われたことが嬉しく満足していたようです。
数日後病棟からすぐ来てほしいとの連絡があり駆けつけると、家族の見守る中、ベッドのテーブルには白い盃が二つありました。
弱々しく「寿司は無いけど以前のようにこの盃で先生と乾杯したい」と云う彼に「勿論受けて立ちますよ」と応えて、実はほんの少しの水が注がれた盃を持ち、お互いに顔を見ながらニッコリとして、乾杯のまねごとをしたのでした。
患者さんであり友人でもあった船長は翌々日の朝、亡くなりました。

病気の治癒が望めない患者さんを担当する医師は、その現状にどのように対応するのがいいのか?
患者さんの最期をみとることも多かった消化器外科医として、『この状況で、自分がしてあげられることは何か?』と考えて来ました。
『病気に勝てなかったことは残念だけど、それなりに納得できる人生だったなぁ~』と患者さんに思わせてあげたい。
『あなたが担当してくれたことに感謝しています』との言葉ほど医療人に勇気を与えてくれるものはありません。
船長との乾杯は忘れることのない深い想い、追憶となってその後の私の診療姿勢に影響を及ぼしてきたと思っています。 】

この後平成元年に故郷の徳島を離れて、大宮に新設された現『自治医科大学附属さいたま医療センター』の門を敲いた。
これは『人生一度は外科専門医としての自負を得ておきたい』という夢を捨てきれない
自分を認めての大きな決断だった。
ただし『3年間だけの国内留学のつもり』と、当時まだ元気だった両親と家内に宣言してやっと理解と了承・納得を得て実現にたどり着いたのだ。
卒後10年が過ぎていた。
始めは総合医学講座Ⅱ:外科(外科系総合医養成コース)の助手という身分であった。
初代教授は上部消化管を専門としていた宮田先生で学生時代からお世話になっていた。
その後周辺地域住民から高度専門医療の要望が高まりそれに応えるために、さいたま医療センター運営方針も徐々に変遷して専門診療科が確立されるようになった。
私の担当領域は、始めは徳島大学で学位取得に至った乳腺疾患を主としていたが、総合医学講座Ⅱ:外科の医局員は少なく、次第と症例数の多い上部・下部消化管を始めとして広範囲の疾患も担当するようになり、消化器一般外科系総合医と称していた。
また医局長として卒後レジデントとしてさいたま医療センターでの研修を希望して来た若手医師を相手に、『内科知識の豊富な外科医こそ(!) 総合臨床医のホープだ』との持論で総合医学講座Ⅱ:外科医局に強く勧誘していたのだが、ある総合医学講座Ⅰ:内科の教授には『強引に過ぎる』とのお小言を頂いてしまった。

あの頃胆石症に対する治療法としての胆嚢摘出術に革新的な手技が欧米より伝えられた。腹腔鏡を駆使しての開腹しない手術として話題となり、外科医の多くは驚愕とともに違和感も覚えたと思う。
日本で初めてこの手術手技を実践したのは誰か?などが話題になったが、我が母校の消化器内科医局は『腹腔鏡的胆嚢摘出術;通称ラパタン』として大々的にこの手技の伝道師たらんとしていた。
山形大学や鹿児島大学でも内科医局が先陣を切って発展に尽くしていた。
さいたま医療センターでも消化器内科医が手術を行い、外科医はトラブルがあった時に即座に開腹手術に移行出来るようにと手術室外に待機を求められていたことが懐かしい。
その後当然のこととして全国の外科医達による巻き返しがあり、手技の対象疾患も広がり現在の『内視鏡外科手術手技認定医達による鏡視下手術の隆盛』に至っている。
技術革新のスタート時点からこれに携われたことは幸運だった。
総胆管切開切石術・脾臓摘出術・副腎摘出術・十二指腸潰瘍穿孔閉鎖術・胃部分切除・胃内粘膜切除術・肝部分切除術・肝嚢胞天蓋開窓術等の手術術式の工夫に参画し、先陣を切って邁進出来たことにはさまざまな思い出とともに大いに満足している。

初期の頃に総合医学講座Ⅱ:外科医局に参集してきた若手医師(自治医大卒業生は半分程度だった)には肝・胆・膵領域外科の研鑽を積んできた者は皆無であった。
手術症例のある時には何時も栃木の本院に専門医(前自治医科大学附属病院長の安田先生)の派遣をお願いしその指導を仰いでいた。
全国的にも肝臓切除術が一般的になりつつあった頃だった。
大宮に越してきて既に5年が経過していたが家族への約束も忘れたふりをして、『消化器外科特に肝胆膵領域』を選択専攻し、その高難度手術手技の獲得に研鑽を積む機会を得た。経験不足は他病院の先達から学び取ろうとして、<HBPS;埼玉若手肝胆膵外科医の会>と称した勉強会を立ち上げた。
幸いにも好評で年2回20年に亘って主宰し継続開催する事が出来て、現JCHO埼玉メディカルセンターの細田先生・唐橋先生、さいたま市立病院の山藤先生・竹島先生、埼玉癌センターの坂本先生・網倉先生、さいたま日赤の木村先生・中川先生・吉留先生、防衛医大の初瀬先生・山本先生・青笹先生、独協医大越谷病院の山口先生・名取先生、みずほ台病院の井坂先生、帝京大学の佐野先生、都立駒込病院の本田先生等々の同年代の若手外科医と誼を築くことが出来て、人生の貴重な財産となっている。

さて、勤務医として最年長に達し遂に故郷徳島に帰らないままに過ぎた今、『自分は何をしてきたか?』と纏めてみたい思いに浸ることがある。
なすべき使命には日々の臨床を誠実に積み重ねていく他に、医局長の5年間を含めて実質8年間医局運営の責務を任されていた。
この間に関連医師会の先生方との付き合いを経験し、多くの知己を得て今に至っている。またこの時期には未だヒエラルキーなど確立していない小集団の外科医局の中で、それでも組織論として{やるべきこと&やってはいけないこと}を必然的に体得することになった経験はその後大いに役立っている。
これにはさいたま医療センター事務局長福沢さんの指揮下にまとまっていた事務部門の
仕事ぶりを見聞きしていたことが随分と勉強になった。
特に人事案件では迷い・悩みそして怨まれるなど(人生経験としては貴重なものと云えるかもしれないが…)中間管理職としての苦しみも随分と味わった。
他には後輩の指導・教育もあった。
自分の持てる力に不足を意識しながらも、会得してきた知識や技術を伝え残したいという人としての本能もあり、「ああしよう(ああしろ)!こうしよう(こうしろ)!」と随分と口うるさい親方(というより兄貴分でしかなかったのだが)となっていたことだろう。
今から思えば汗顔の至りである。

一方、第2代教授の小西先生の指示で平成15年頃から10年程の間、外保連(一般社団法人外科系学会社会保険委員会連合;わが国の外科系診療における適正な診療報酬はどのようにあるべきかを学術的に検討することを主な目的として、1967年に外科系の9つの主要学会が集まって作られた団体)の内視鏡外科部門の委員として活動した。
一時腹腔鏡下虫垂切除術の保険点数が削られたことがあり、これの是正を求めて厚生労働省に対して手術実績統計や意見書等数々の面倒な書類作成による復活折衝に取り組んだこともあった。
ストレスも多く、自分には向いていない作業だなぁと痛感した。
また、5年ほど前のことだったと思うが外科手術点数全般のアップが成立したとき、外保連委員長であった埼玉県立小児医療センター院長の岩中先生からこれを外科医の環境整備(手術件数当たりのインセンティブなど)に反映させてほしいとの要請があった。
この時には北区赤羽の東京北医療センターに転籍していたのだが、病院長として外科医だけの待遇改善を画策するにはいまひとつ躊躇するところがあり、結局は単に病院の収益アップにしか繋げられなかった。
一方外科医代表の一人としては申し訳なかったとの思いも残っている。

最近、『医師こそ働き方改革を』といった議論が盛んになっている。
特にまだ減少傾向が続いている外科医にとっては大きな問題であり、『医師の質の向上を最重要視して構築』されるという2018年度からスタートする【新しい専門医制度】とともに関心度は一層上がっている。
医師の労働環境を考えるときに、使命感?か、労働者としての保護か?ということが議論テーマになってしまう。
故武見太郎医師会長は『医師は労働者ではない』と言い切っていたというが、現状ではどちらを主とするのか等の結論は付けられない難しい問題だ。
40年前に受けた大学教育では、『医師の仕事は使命感に基づき、一般の労働者とは異なる奉仕の精神云々』と聞かされた世代の一人である。
結婚式の仲人をお願いした徳島大学第2外科の井上教授からは、「ここで新婦に一言伝えておきたい。新郎はこれから外科医として研鑽を積み成長しなければならない。病院に長く居残ればそれだけ緊急手術などの術者の権利を得て経験を積み早く一人前の外科医に成ることができる。夜、早くは家に帰らないことを覚悟しておきなさい。」という訓示があったのが懐かしい。
一方、20年前には指導を頂いていた自治医大前病院長の安田先生から『留学先のデンマークには外科医は週40時間以上働いてはいけないという法律があった』と教えていただいた。
当時はびっくりするような情報だった。
『緊張を伴い長時間の集中力を必要とする手術は疲労度が高く、これを安全にこなしていくために十分な休息は必須だ』との考えだ。
10年前には『レジデント教育には使命感という言葉を使用すべからず』とのお達しもあった。
今後も臨床医の労働環境整備の議論が続けられるであろうが、医師という職種キャリアアップの為の自己研鑽の時間をどう捉えるかなど専門医制度も関わってくるだろうし、医師の需給問題や医師法の応招義務、医師という資格の業務独占等々越えなければならないハードルは高そうだ。

結局のところこれらの問題に関しては殆んど役に立たなかった時代遅れの自分であり、内心忸怩たる思いを抱いている今日この頃だ。
働き方改革が話題となり、早晩ITを活用した診療の変容が訪れるだろう

と、わが半生を小括してみたものの、この期に及んで大きな変化があった。
定年退職後に嘱託契約で、地域小病院付属の健診センター長を担っていた。
健診センター長の職が、楽だとか隠居仕事のようなものだとは思わなかったが、
それまでの臨床外科医として感じていたビリビリする緊張感は無かった。
ところがこの度は縁有って、所謂医療モールの管理者(責任者:院長)に推挙されて、
思わず眩しい表舞台に引っ張りだされたような面映ゆさを感じている。
働き方改革では、心身ともに健康が維持できるなら75歳までは生産性を上げる労働者と
して期待される様だから、身を引き締めて新しい仕事に取り組んでいこうと決心した。

青春    サムエル・ウルマン

青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ           年を重ねただけで人は老いない  理想を失う時に初めて老いがくる
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ

人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる
希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる

心がけ次第でいつまでも青春を謳歌できる、
つまり世のために役立てるわけだ!

就任のご挨拶

この度、この地に開院いたしました【 さいたま中央クリニック 】の
管理者(院長)の 住永佳久 でございます。

先ずは自己紹介させて頂きます。
昭和54年(1979)自治医科大学卒業後は、地元徳島県に帰り徳島大学第2外科教室及び県立病院での2年間の研修を終え、その後は僻地での医療に従事しておりました。
医師10年目の平成元年(1989)に、大宮に創設されました母校の第2附属病院
【自治医科大学付属大宮医療センター:現さいたま医療センター 】の医員募集に応じて、
総合医学第2講座(外科系)の助手として採用されました。
初めは3年間だけの国内留学のつもりで、家人や両親を説得して上京して来たのですが、
結局はそのまま居続けてしまい、埼玉県人として31年目になります。
さいたま医療センターでは消化器一般外科助教授(准教授)として、主に肝臓・胆道・膵臓の外科手術を担当していました。
この領域では診断の困難な症例が多く、また手術手技の難度が高いこともあり、さいたま赤十字病院・埼玉メディカルセンター・さいたま市民病院・埼玉県立がんセンター・防衛医科大学・独協医大越谷病院・深谷赤十字病院等のこの領域を専門とする先生方と一緒に研究会を立ち上げ、2回/年の開催を20年の長きにわたって主催し、誼を築けたことは私の大きな財産となっています。
また、平成5年頃から普及し始めた“鏡視下手術”の適応拡大に参画することもできて、
胆嚢摘出術の他に総胆管結石切開切石術・副腎腫瘍摘出術・脾臓摘出術などの工夫・改良を手掛けてきました。
平成17年(2005)には、赤羽にあります東京北社会保険病院(現東京北医療センター)に
転籍し、病院長として病院経営も学ぶことが出来ました。
外科診療の第一線から退いた後、平成29年(2017)からはさいたま市浦和区原山の
【 医療法人博仁会 共済病院健診センター長 】として、健診・予防医学の経験を
積むことが出来ましたのも、幸いだと思っています。

さて、旧さいたま赤十字病院跡地に建設された“島忠ホームズ”の2階スペースに
【 さいたま中央クリニック 】が開設され、その管理者に指名されたことは
身に余る光栄であると自覚すると共に、その重責に身の引き締まる思いです。
この縁を充実させるためには、地域の皆様の健康増進に寄与するべく職員全員で、
誠意のある適切な外来診療サービスに努めていく所存です。

今後とも宜しくお願い申し上げます

さいたま中央クリニック 理念
地域の皆様に愛され、親しまれ、信頼されるクリニックとなることを目指し
全職員が揺るぎない真摯な気持ちで、受診者様に優しく寄り添い
地域社会の健康増進のために尽力してまいります

さいたま中央クリニック 基本方針
一  受診者様の権利と尊厳を重視し、安全で質の高い医療を提供します
二  地域の医療施設との連携を大切にし、必要に応じて積極的に
高度先進医療機関への迅速な紹介および情報提供に努めます
三 職員は自己研鑽に努め、常に笑顔で優しく受診者様に対応し、
誠実な態度できめ細やかな外来医療サービスを提供します